進化論は嘘 481

 

                   マタイの福音書27310

 

3 そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔(こうかい)し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、

 

4 「 私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ」と言った。

 

5 それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。

 

6 祭司長たちは銀貨を取って、「これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから」と言った。

 

7 彼らは相談して、その金で陶器師(とうきし)の畑を買い、旅人たちの墓地にした。

 

8 それで、その畑は、今でも血の畑と呼ばれている。

 

9 そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。「彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの人々に値積(ねづ)もりされた人の値段である。

 

10 彼らは、主が私にお命じになったように、その金を払って、陶器師の畑を買った。」

 

 

 

イスカリオテのユダの自殺

 

            ユダの死

 

「そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して・・・」。ユダは後悔したようであるが、救われてはいない。罪の赦しに(いた)()(あらた)めは、ギリシア語で「メタノイア」だが、ユダの後悔は、「メタメロマイ」となっている。つまり彼は単に後悔しただけで、救いを受けるのに必要な信仰による悔い改めはしなかったということである。
ユダは、銀貨30 枚を返そうとしたが、受け取ってもらえず、仕方なしにそれを神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。使徒118 では、「まっさかさまに落ち、からだは真っ二つに裂け、はらわたが全部飛び出してしまった」となっている。どちらが正しいのか。(1)当時の習慣では、過越の祭りが始まる木曜の夜から、神殿で過越の子羊をほふる金曜の朝までの間に、城壁の中に死体があれば、町は(けが)れていると見做(みな)された。(2)汚れを取り除く唯一の方法は、城壁の南側からヒンノムの谷に向かってその死体を投げ捨てることである。(3)そこで、ユダヤ人たちは町を清めるために、ユダの死体を城壁から谷に投げ捨てた。その結果、ユダのからだが真っ二つに裂けたのである。

 

 

           エレミヤの預言

 

ユダが返却した銀貨30 枚は、不法によって得た金であったため、神殿のために用いることができなかった。そこで祭司長たちは、その金で旅人を(ほうむ)る墓地を購入した。その土地は、「血の畑」と呼ばれるようになる。これは、エレミヤの預言の成就である。(1)エレミヤの時代、ヒンノムの谷(「ゲイ・ヒノム」、ギリシア語で「ゲヘナ」)では人身供犠(じんしんくぎ)(おこな)われていた。エレミヤは、この場所を呪い、そこは葬りの余地が残されないほどに死体が葬られる場所となると預言した(エレ7311911)。(2)マタイが910 節で引用している聖句は、エレミヤ書からのものではなく、ゼカリヤ111213 である。この聖句は、実際に起こった出来事を表しているが、「血の畑」を買ったということは、呪いも買ったという意味になり、エレミヤの預言が成就したと言えるのである。(3)紀元70 年にエルサレムが滅びたが、その時には文字どおり、この畑はユダヤ人たちの死体で満たされた。
救いに至る悔い改めと、単なる後悔とは違う。イエスを拒否した者は、滅びの場所に行くことになる。私たちは、この厳粛(げんしゅく)な事実をどう受け止めているだろうか。救いに至る悔い改めをした人は、幸いである。

 

 

 

                        きょうの祈り

 

天の父なる神さま。単なる後悔ではなく、救いに至る悔い改めをひとりでも多くの人が体験できますように。そのために、私を用いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

ハーベストタイムミニストリーズ Clayより

 

https://message-station.net/clay/daily/2022/01/02/2679/