進化論は嘘 378

 

                  マタイの福音書12913

 

9 イエスはそこを去って、会堂に入られた。

 

10 そこに片手のなえた人がいた。そこで彼らはイエスに質問して「安息日にいやすのは正しいことでしょうか」と言った。イエスを訴えるためであった。

 

11 イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。

 

12 人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」

 

13 それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。

 

 

 

肉体の癒し

 

         パリサイ人たちの策略

 

安息日にイエスが会堂に入ると、そこに片手のなえた人がいた。この状況は、イエスを陥れるためにパリサイ人たちが仕組んだ策略(さくりゃく)である。(1)パリサイ的律法(口伝律法、あるいはミシュナ法)によると、安息日に病人を癒すことは禁じられていた(ただし、病人の生命が危険にさらされている場合は、助けてもよいとされていたが、片手のなえた人はそれに該当(がいとう)しない)。(2)彼らは、イエスがその人を癒すかどうかを観察し、もし癒すなら、律法違反でイエスを告発しようとしていたのである。

 

 

          イエスの回答

 

イエスは、ここでも知恵のある答え方をされた。(1「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか」。これは、口伝律法が許可していた内容である。つまり、安息日であっても、穴に落ちた羊を引き上げることは許可されていたのである。(2)次にイエスは、人間と羊を比較された。これは、当時のラビたちがよく用いた教授法のひとつ(小から大への論証)である。つまり、価値の低い方(羊)がこれほど大切にされるなら、はるかに値打ちのある方(人間)は、それ以上に大切にされるべきだという議論である。(3)結論的には、安息日に良いことをするのは、正しいということになる。その正しいことをイエスは実行し、片手のなえた人を癒された。公生涯のこの時期に行われた癒しは、イエスのメシア性を証明するためのものである。それゆえ、癒しを受ける側の信仰は要求されていない。
癒しを目撃したパリサイ人たちは、どのように反応したか。彼らは、イエスがメシアであることを認めなかったばかりか、逆に、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談を始めた。イエスがパリサイ的権威を否定したことで、彼らの怒りに火がついたのである。彼らの姿から、教訓を学ぼう。前回学んだように、神は「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」と言われる。愛こそ、律法の目的であり、律法を超えるものである。それゆえ、私たちは、愛をクリスチャン生活のゴールに()える必要がある。主イエスの行為は、信仰のゴールとは何かを私たちに思い出させてくれる。「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです」(1 ペテ48)。「そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです」(コロ314

 

 

 

                       きょうの祈り

 

天の父よ。あなたは愛なるお方です。どうかあなたに似た者と変えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

ハーベストタイムミニストリーズ Clayより