進化論は嘘 337

 

                  マタイの福音書54348

 

43 『 自分の隣人(となりびと)を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

 

44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

 

45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。

 

46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人(しゅぜいにん)でも、同じことをしているではありませんか。

 

47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人(いほうじん)でも同じことをするではありませんか。

 

48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

 

 

 

愛の実践

 

        「隣人を愛し、敵を憎め」

 

口伝律法(ミシュナ法)による「義の解釈」と、メシアによる「義の解釈」の対比は、この箇所で終わる。「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」とある。(1「自分の敵を憎め」という教えは、パリサイ派のものではない。これは、エッセネ派(クムラン共同体)と呼ばれる小さなグループが強調した教えである。ここでは、イエスはエッセネ派の教えに対して語っておられると思われる。(2)敵を憎むことを正当化する論理は、「それによって神の怒りが罪人の上に下るから」というものである。つまり、敵を憎むことによって神のさばきを実践(じっせん)しているのである。(3)当時のユダヤ人たちは、一般的には、「自分の隣人」とは同胞(どうほう)のユダヤ人たちであると定義していた。しかし、隣人の聖書的な定義は、「隣人とは目の前にいる必要を抱えた人」ということになる。イエスの教えは、聖書的な定義に基づいたものである。

 

 

          イエスの教え

 

上記のような背景を前提として、イエスは本来あるべき「律法の義」について説き明かされた。(1)イエスの定義では、隣人とは助けを必要としている人のことである。この真理は、ルカ10 章の「良きサマリヤ人のたとえ」でも明らかにされている。(2)自分にとって敵だと思える人でさえも愛するように、というのがイエスの勧めである。その理由は、天の父なる神は人を分け(へだ)てせず、すべての人に、太陽や雨という恩恵(おんけい)を与えておられるからである。(3)限定的な愛なら、取税人や神を恐れない異邦人でも、実行している。イエスの弟子となった者は、父なる神のご性質を反映させた完全な愛(敵に対する愛)を追求し、実行せねばならない。(4)このような愛は、人間の努力だけでは達成不可能である。もし、完全な愛を持つことが救われるための条件であるなら、私たちは絶望するしかない。どうすればよいのか。以下の3 点について黙想(もくそう)してみよう。
あるがままで愛され、恵みによって罪(ゆる)されたことを覚え、父なる神に感謝しよう。
いま自分が、主イエスの似姿(にすがた)に変えられていく途上(とじょう)にあることを受け取り、主イエスにお従いする決心を新たにしよう。
私たちを完成へと導いてくださるのは、聖霊なる神であることを信じ、このお方に信頼を置こう。神の助けは、手を伸ばせば届くところにある。

 

 

 

                        きょうの祈り

 

天の父なる神さま。あなたに愛されている子として、あなたの愛を反映させることができますように、私を助けてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

ハーベストタイムミニストリーズ Clayより