進化論は嘘 326

 

                   マタイの福音書41822

 

18 イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。

 

19 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」

 

20 彼らはすぐに網を捨てて従った。

 

21 そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を(つくろ)っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。

 

22 彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。

 

 

 

最初の弟子たち

 

        並行箇所はルカ51 11

 

ルカ5111 を参考にすると、弟子たちの召命の全貌(ぜんぼう)が明らかになる。イエスは、4 人の弟子たち(ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネ)を召した。これは、唐突(とうとつ)な呼びかけではない。ヨハネ12 章によって、この4 人がバプテスマのヨハネの弟子たちであり、すでにイエスとの関わりを持っていたことが分かる。
1)湖畔で教えていたイエスは、群衆が迫って来るので、ペテロの舟に乗って湖上から教えることにした。(2)講話が終わると、イエスはペテロに命じて湖に網を降ろさせた。ペテロは漁師であり、イエスは大工である。本来ならペテロは、「日が高くなると魚は取れません」と言って、その申し出を断ることもできたはずである。しかし彼は、イエスのことばに従って網を下ろした。すると見たこともないほどの大漁になった。(3)その瞬間、ペテロはイエスの偉大さに目が開かれ、畏怖(いふ)の念に襲われた。「私は罪びとです。私から離れてください」(ルカ58)という叫びは、私たちのものでもある。
人間同士の比較で終わっているうちは、自分が罪人であることは見えてこない。しかし、主イエスを基準にして自分の姿を見るなら、自分への評価が変わってくる。主イエスは被造世界を超越(ちょうえつ)したお方であるが、人となって被造世界に住んでくださった。主イエスの栄光を拝し、健全な恐れをもって御前に出る人は幸いである。

 

 

          人間をとる漁師

 

イエスはペテロにこう呼びかけた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」19 節)。(1)ユダヤ教では、弟子たちがラビを選ぶのが普通であるが、ここでは、ラビであるイエスが弟子たちを選んでいる。(2)彼らは、「人間をとる漁師」という言葉を聞いて、心に挑戦を受けたことであろう。魚をとるためには、その魚の性質、(えさ)の好み、水深、風向き、気温、光の具合など、あらゆる条件を考慮に入れなければならない。人間のたましいを勝ち取るのもそれと似ている。彼らは、漁師としての経験を、神の国のために用いるように召されたのである。神が私たちを召されるとき、過去の経験が無駄(むだ)になることは決してない。その経験が有効に用いられるのである。(3)ペテロとアンデレは、イエスに従うために網を捨てた。ヤコブとヨハネは、舟も父も残して従った。ここには、主イエスへの全面的な献身(けんしん)と信頼がある。彼らは、生活の(かて)(かせ)ぐための職業を捨てたが、それは、すべての必要は神によって満たされると信じたからである。

 

 

 

ハーベストタイムミニストリーズ Clayより