進化論は嘘 320

 

                   マタイの福音書31112

 

11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを(さず)けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを()がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。

 

12 手に()を持っておられ、ご自分の脱穀場(だっこくじょう)をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、(から)を消えない火で焼き()くされます。」

 

 

 

メシアの描写

 

         ヨハネが語るメシア像

 

ヨハネは、まだ出会っていないメシアについて預言的言葉を語る。(1)メシアは自分よりも力のあるお方で、自分にはそのはきものを脱がせてあげる値打ちもない。つまり、奴隷として仕える値打ちもないというのである。(2)自分が授けている水のバプテスマ(悔い改めのしるし)と、メシアがお授けになるバプテスマとを比較している。メシアのバプテスマは、一つではない。「聖霊と火」によるバプテスマである。
「聖霊と火によって」とは、どういう意味なのか。メシアは手に箕を持ち、脱穀場をすみずみまで清める。つまり、本物と偽物(にせもの)を選別されるということである。麦とは「メシアを信じる者」、殻とは「不信仰者」のことである。麦が収められる倉とは「神の国」ことで、消えない火で焼き尽くされるとは「火の池に投げ込まれる」ことである。つまり、信じる者には聖霊によるバプテスマを授けて、神の国に入れ、信じない者には火のバプテスマを授けて、地獄に投げ込むということである。すべての人が、メシアからこのいずれかのバプテスマを受けることになる。
聖霊によるバプテスマについて、パウロはこう書いている。「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです」(1 コリ1213)。人はイエスをメシアと信じた時に聖霊によってバプテスマされ、キリストのからだである普遍的教会の一員とされる。いわゆる「聖霊のバプテスマ」(聖書にはそのような名詞形の用語はないが)は、イエスを信じたすべての人がすでに経験していることである。

 

 

          先駆者とメシア

 

これで、調査の第一段階が終わった。これ以降、バプテスマのヨハネは迫害に会い、殉教(じゅんきょう)の死を()げることになる。ここで注目しておくべきテーマは、「先駆者(せんくしゃ)に起こる事は、メシア(神の国の王)にも起こる」ということである。ヨハネの死は、メシアの死の予表である。これ以降マタイは、神の国の王として来られたメシアが、どのようにして受難(じゅなん)の道を歩まれたのかを記していく。福音書を読むことは、メシアとともに受難の道をたどることでもある。クリスチャンの最終ゴールは、この世で成功を収めることではなく、神の御心に忠実に歩むことである。自らの人生のゴールを再吟味し、永遠に続く価値あるものに向かって前進しようではないか。

 

 

 

ハーベストタイムミニストリーズ Clayより