進化論は嘘 270

 

                     創世記43114

 

1 さて、その地でのききんは、ひどかった。

 

2 彼らがエジプトから持って来た穀物を食べ()くしたとき、父は彼らに言った。「また行って、私たちのために少し食糧を買って来ておくれ。」

 

3 しかしユダが父に言った。「あの方は私たちをきつく(いまし)めて、『あなたがたの弟といっしょでなければ、私の顔を見てはならない』と告げました。

 

4 もし、あなたが弟を私たちといっしょに行かせてくださるなら、私たちは下って行って、あなたのために食糧を買って来ましょう。

 

5 しかし、もしあなたが彼を行かせないなら、私たちは下って行きません。あの方が私たちに、『あなたがたの弟といっしょでなければ、私の顔を見てはならない』と言ったからです。」

 

6 そこで、イスラエルが言った。「なぜ、あなたがたにもうひとりの弟がいるとあの方に言って、私をひどいめに会わせるのか。」

 

7 彼らは言った。「あの方が、私たちと私たちの家族のことをしつこく尋ねて、『あなたがたの父はまだ生きているのか。あなたがたに弟がいるのか』と言うので、問われるままに言ってしまったのです。あなたがたの弟を連れて来いと言われるとは、どうして私たちにわかりましょう。」

 

8 ユダは父イスラエルに言った。「あの子を私といっしょにやらせてください。私たちは出かけて行きます。そうすれば、あなたも私たちも、そして私たちの子どもたちも生きながらえて死なないでしょう。

 

9 私自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせてください。万一、彼をあなたのもとに連れ戻さず、あなたの前に彼を立たせなかったら、私は一生あなたに対して罪ある者となります。

 

10 もし私たちがためらっていなかったなら、今までに二度は行って帰って来られたことでしょう。」

 

11 父イスラエルは彼らに言った。「もしそうなら、こうしなさい。この地の名産を入れ物に入れ、それを贈り物として、あの方のところへ下って行きなさい。乳香と蜜を少々、樹膠と没薬、くるみとアーモンド、

 

12 そして、二倍の銀を持って行きなさい。あなたがたの袋の口に返されていた銀も持って行って返しなさい。それはまちがいだったのだろう。

 

13 そして、弟を連れてあの方のところへ出かけて行きなさい。

 

14 全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も、失うときには、失うのだ。」

 

2度目の買い出し

 

          深刻化するききん

 

カナンの地でのききんは激しく、エジプトから買ってきた食糧も底をついてしまった。そこでイスラエル(ヤコブ)は、再び息子たちをエジプトに送ろうとするが、ベニヤミンを共に送るかどうかで悩んだ。そのイスラエルを説得したのは、ユダであった。ユダは、事態の深刻さを父に()いた。(1)いまエジプトに行かなかったら、親族全員が餓死(がし)することになる。ベニヤミンさえも死を(まぬか)れない。(2)ユダは、自分のいのちを保証に差し出し、もしベニヤミンを連れて帰らなかったなら自分がその責任を負うと申し入れた。具体的には、親子関係の絶縁(ぜつえん)、つまり遺産相続(いさんそうぞく)の権利を取り去られても(かま)わないという意味である。(3)もし躊躇(ちゅうちょ)していなかったら、今までに2 度はエジプトに行けていたであろうし、人質となっているシメオンも取り戻せていただろう、というのがユダの本心であった。(4)ユダは、ヨセフを売るように提案した張本人であった(創372627)。起こったことは取り返すことができないが、弟ベニヤミンの命を救うことに全力を()くすことはできる。ベニヤミンの保証人になるというのは、ユダの罪滅(つみほろ)ぼしである。

 

 

         イスラエルの応答

 

イスラエルは、ユダの提案を受け入れ、2 つの準備をした。(1)人間的な意味での準備。彼は、土地の名産を(おく)り物にするように命じた。これは、かつて彼が兄エサウに対して用いた方策である。6 つの産物とは、乳香(にゅうこう)(みつ)樹膠(じゅこう)没薬(もつやく)、くるみ(ピスタチオ)、アーモンドである。これらの贈り物は、カナンの地の産物であるが、主食とはなり得ないものである。また彼は、2 倍の銀を持たせた。穀物相場がさらに上がっていることを予測したからである。さらに、袋の中に返されていた銀も持って行かせた。(2)神への信頼。彼は、「全能の神(エル・シャダイ)がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように」「もうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように」と祈った。最後に、「私も、失うときには、失うのだ」と言った。これは、あきらめの言葉ではなく、神に信頼する信仰者の言葉である。この言葉は、主イエスのゲッセマネの園での祈りと相通(あいつう)じるものがある(ルカ2242)。
困難な決断を迫られて躊躇する時、一歩()み出すために必要なのは、人間的な意味での準備と、結果は神に(ゆだ)ねるという信仰である。この2 つが備わっているなら、勇気をもって一歩踏み出すことができる。

 

 

 

ハーベストタイムミニストリーズ Clayより