進化論は嘘 159

 

                      創世記2117

 

 

1 【 主】は、約束されたとおり、サラを(かえり)みて、仰せられたとおりに【主】はサラになさった。

 

2 サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。

 

3 アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。

 

4 そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を(ほどこ)した。

 

5 アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。

 

6 サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」

 

7 また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」

 

 

 

イサクの誕生

 

            約束の成就

 

 

「【主】は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった」。(11718 章で約束されてきたことが、ついに成就したのである。アビメレクの家の胎を開かれた【主】は、サラの胎も開かれた。(2「神がアブラハムに言われたその時期に」とは、1814 の約束を指している。(3)アブラハムは、生まれた子をイサクと命名し、8 日目の割礼を施した。これは、8 日目の割礼の初めての記録である。すでに学んだように、割礼はアブラハム契約のしるしである。(4)その時、アブラハムは100 歳になっていた。子どもの約束が与えられてから、25 年が経過していた。長い年月である。
神の約束は、すぐに成就するとは限らないが、それは確実にやって来る。そこにクリスチャンの希望がある。神のことばを信じることは、神の人格を信頼することと同じである。私たちは、聖書に関する知識が増えることだけを喜んでいてはならない。聖書の知識が増えるのと並行して、神への信頼が増していく必要がある。

 

            サラの喜び

 

 

「サラは言った。『神はわたしに笑いをお与えになった』」(新共同訳)。(1)ここには、イサク(笑い)という名の言葉遊びがある(積極的な意味で使われている)。(2)次にサラは、こう言っている。「聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう」(新共同訳)。これもまた言葉遊びである。かつては、ハガルのような人々がサラのことを笑っていた。しかし、子どもが生まれたので、人々はサラのことを笑わなくなった。(3)彼女は、誰もが喜びを共有してくれるものと思っていたが、先に行くと、彼女が予想したようにはならないことが明らかになる。
「誰がアブラハムに言いえたでしょう。サラは子に乳を含ませるだろうと。しかしわたしは子を産みました。年老いた夫のために」(新共同訳)。(1)彼女は、自分の身に奇跡が起こったことを認めている。(2)「子」という言葉が複数形になっている。これは、彼女がアブラハム契約を認識し、息子のイサクから多くの子孫が誕生すると信じていたことを示している。(3「しかしわたしは子を産みました」「子」は、単数形である。これはイサクのことを指している。
サラの笑いは、もはや不信仰の笑いではなく、喜びの笑いとなった。サラの体験から教訓を学ぼう。神は、私たちの嘆きを喜びに変えてくださるお方である。喜びを経験する前に必要なものは、忍耐である。

 

 

 

 

ハーベストタイムミニストリーズ Clayより