進化論は嘘 19

第2課
自己との出会い
「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたい
と思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っている
からです」 (ローマ7:15)

第2課の絵の概念
1. 胸にある光り輝くハート … 人は神のかたちに似せて創造されました。
2. 獄の中で光に背を向けて立つ人 … 創造主に反逆して生きる人間は、あらゆる束縛の
奴隷となっています。
 (1)重荷 ……………………人は、自分の過去を恐れています。
 (2)仮面 ……………………人は、自分を直視することを恐れています。
 (3)隣人との争い …………人は、隣人と平和に暮らすことができません。
 (4)財宝 ……………………人は、物質を支配するよりも、物質に支配されています。
 (5)時計 ……………………人は、死を恐れています。
3. 鍵の前で動き回る蛇 ……サタンは、人に偽りの解放を与えようと動き回っています。
 (1)第1の鍵 ………………物質主義は、もっと富を手に入れよと叫びます。
 (2)第2の鍵 ………………人本主義は、もっと教育を与えよと叫びます。
 (3)第3の鍵 ………………律法主義は、もっと善行を積めと叫びます。
 (4)第4の鍵 ………………神秘主義は、もっと信仰せよと叫びます。
4. 窓から差し込む光 …… 苦境に立つ人間に対して、神からの解決が与えられています。
 (1)部屋の隅の割れ目 ……人は、光に照らされると痛みを感じます。
 (2)差し出された手 ………キリストの救いの手が差し出されています。
 (3)手にある十字型の鍵 …キリストの十字架こそ真の解決です。

第2課 自己との出会い
イントロダクション
 私はどこから来てどこへ行こうとしているのだろうか。この問いに対して、明確な
答えが得られるまでは、人は決して安らぐことはできません。
「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人と
は、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者
なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは」 (詩篇8:3,4)
 自己とは不可解なものです。使徒パウロは、自己矛盾に悩み、次のように告白せざ
るを得ませんでした。
「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをし
ているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」 (ローマ7:15)
「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。
私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないから
です。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っ
ています」 (ローマ7:18,19)
1. 人は神のかたちに似せて創造されました。
 人は、進化によって偶然発生したものではありません。創造主の最高の作品として
造られ、他の動物には見られない次のような性質を持っています。
 知性…人は理性的に物事を考え、環境を支配し、創造的な仕事をすることができます。
 感情…人は、芸術に感動し、愛し愛されることに充足を見いだす存在です。
 意志…人は、自らの決断によって、自らの人生を選び取ることができます。
 霊性…宇宙の絶対的人格(神)と交わり、この方を喜ぶことができます。
 人の使命は、この地上において神の代理人として生きることでした。
「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。
地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ』(創世記1:28)
2. 創造主に反逆して生きる人間は、あらゆる束縛の奴隷となっています。
 車がガソリンで走るように、人は神とつながることによってのみ豊かな人生を生き
ることができます。しかし人は、神に反逆し、自分勝手な道を歩むことを選びました。
この神への意図的反逆を、罪と言います。

「神である主は人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのま
ま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取っ
て食べるとき、あなたは必ず死ぬ』」 (創世記2:16,17)
「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くす
るというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっ
しょにいた夫にも与えたので、夫も食べた」 (創世記3:6)
 罪は人をさまざまな束縛の中に陥れました。
(1)人は、自分の過去を恐れています。
 神に反逆したアダムとエバは、神の声を聞いたとき、園の木の間に身を隠しまし
た(創世記3:8)。人は、その道徳性のゆえに、罪責感を負って歩む者となってしまっ
たのです。
「悪者は追う者もないのに逃げる。しかし、正しい人は若獅子のように頼もしい」
(箴言28:1)
(2)人は、自分を直視することを恐れています。
 アダムとエバは、まことの自分の姿を見ることを恐れ、いちじくの葉をつづり合
わせて腰のおおいを作りました(創世記3:7)。いちじくの葉は、むなしい人間の努
力を表しています。人は外的な何かで自分を飾らなければ、安心して自己受容でき
ない存在となってしまいました。
(3)人は、隣人と平和に暮らすことができません。
 神から責任追及をされたとき、アダムはエバに、エバは蛇に責任転嫁をしようと
しました(創世記3:12,13)。人は、罪の重荷を持ったままで生きていくことができ
ないため、絶えず責任を転嫁する機会をうかがっています。
 健全な自己愛がなければ、隣人を愛することができないという真理は、次のイエス・
キリストのことばでもわかります。
「そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、
あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣
人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせ
つです」 (マタイ22:37 ~ 39)
(4)人は、物質を支配するよりも、物質に支配されています。
 物そのものは、決して悪ではありません。しかし、物の誤用が始まるとき、本来
善であるはずのものが、人間の尊厳を破壊し、争いを引き起こし、束縛をもたらす
ものとなります。

「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありま
しょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう」
(マタイ16:26)
(5)人は、死を恐れています。
 死がやってくると、その人のすべての可能性に終止符が打たれ、すべての活動が
停止します。死は不条理なものです。聖書の中には、自然死という考え方はありま
せん。すべての死は、不自然なもの、悲しむべきものです。そしてすべての人が、
意識するとしないとにかかわらず、刑の執行を待つ死刑囚のように生きているので
す。
「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が
入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、─それというのも全人類が
罪を犯したからです」 (ローマ5:12)
3. サタンは、人に偽りの解放を与えようと動き回っています。
 苦境に立つ人間に対して、もっともらしい解決が考えられ、提供されてきましたが、
そのすべてが、最終的な解放を与えることに失敗してきました。その解決策とはどの
ようなものであるのか、考えてみましょう。
(1)物質主義は、もっと富を手に入れよと叫びます。
 コマーシャリズムの文明は、神学をもった宗教であると考えられます。そこには
儀式性があり、人間の全人的かかわりを要求する力があります。
 また、罪、救いの概念もあります。まさに、近代文明というベールをかぶった宗
教そのものです。
(2)人本主義(ヒューマニズム)は、もっと教育を与えよと叫びます。
 人間の知識の量を拡大していけば、いつかは理想郷が到来すると考える人々がい
ます。しかし、このような幻想は、20 世紀の2つの大戦によって完全に破壊されて
しまいました。そして、21 世紀は民族紛争の世紀となっています。
(3)律法主義は、もっと善行を積めと叫びます。
 ユダヤ教のパリサイ主義を挙げるまでもなく、人類は、律法によって救いを達成
しようと何度も試みてきました。今日の日本でも、同じことがくり返し行われてい
ます。しかし、この考え方は、次のパウロのことばによって、全面的に否定されて
います。
「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないか
らです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです」 (ローマ3:20)

(4)神秘主義は、もっと信仰せよと叫びます。
 信じる対象を問題にせず、とにかく信仰を持つことが大切であるとする日本人特
有の考え方は、聖書では、「霊的姦淫」として最も忌み嫌われるものです。
「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」
(出エジプト20:3)
4. 苦境に立つ人間に対して、神からの解放が与えられています。
 神は決して人間を見捨ててしまわれたのではありません。アダムとエバに呼びかけ
られた、「あなたはどこにいるのか」(創世記3:9)という声は、今日も全世界に響きわたっ
ています。
(1)人は、光に照らされると痛みを感じます。
 アダムとエバは、なぜ、神の声を聞いたとき身を隠したのでしょうか。人は、ど
うして、教会に来ることに抵抗を感じるのでしょうか。それは、光に近づくと、痛
みを感じるからです。
(2)キリストの救いの手が差し出されています。
 神が、アダムとエバに語りかけたことばは、すべて疑問文でした。彼らを責める
ためではなく、救うために神が近づいてくださったのです。神は、どんな人でも、
今あるがままで愛し、救ってくださいます。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたし
があなたがたを休ませてあげます」 (マタイ11:28)
(3)キリストの十字架こそ真の解決です。
 創世記3 章15 節は、原福音(げんふくいん)と呼ばれるものですが、ここには、
それ以降聖書の中で展開される神の救いの計画が予表されています。そして、それは、
最終的には、キリストの十字架によってサタンの業に勝利するところまで続きます。
「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意
を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」
(創世記3:15)
 創世記3 章21 節には、キリストの義の衣が予表されています。これは、人間の
作り出した朽ちゆく衣とは違い、永遠に朽ちることのない、神からの賜物としての
義の衣です。
「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」
(創世記3:21)