達成感のある仕事が過労死をまねく

「過労死するのは人間だけ」という事実をご存じでしょうか。
 疲労感は生体アラームのひとつであり、脳が疲れて脳がそれを感じていること、それゆえに疲労と疲労感は別の現象であると述べました。
 そこで問題になるのは、疲労感が生体アラームとして効かなくなり、疲れが積み重なっているにもかかわらずそれを感じなくなることです。これは、人体にとってもっとも危険な状況です。仕事に生きがいを感じ、休む間もなく忙しく働くビジネスパーソンこそ、その危険は高いと言えます。
 では、なぜ人は疲労感という生体アラームが効かなくなるのでしょうか。それは、ほかの動物にはみられないほどに発達した前頭葉が原因です。前頭葉は、「意欲や達成感の中枢」と呼ばれています。ただ、ヒトではあまりにも前頭葉が大きいために、眼窩前頭野で発した疲労感というアラームを意欲や達成感で簡単に隠してしまうことがあるのです。研究者はこの現象を「疲労感のマスキング」呼んでいますが、患者さんや一般の人に対しては、「隠れ疲労」「疲労感なき疲労」とも表現して警鐘を鳴らしています。
 一方、前頭葉が小さいほかの動物、たとえばライオンは獲物を追いかけるとき、どれだけ空腹であっても疲労感を眼窩前頭野で自覚したらアラームに従って追いかけるのをやめます。前頭葉が発達していないヒト以外の動物では、意欲や達成感より疲労感というアラームを優先して行動するのです。それゆえ、ヒト以外の動物では過労死することはないというわけです。
 これまでの過労死の研究でも、日ごろから仕事にやりがいや達成感がある、あるいは上司や同僚からの賞賛、昇進といった報酬が期待できて楽しく仕事しているときほど過労死のリスクが高いことがわかっています。楽しく仕事しているときほど「疲労感なき疲労」が蓄積されやすく、休まずに仕事を続けることで疲労は脳と体を確実に蝕み、果てには過労死にいたらしめるのです。
 同じ現象は運動時にもみられます。「ランナーズ・ハイ」という言葉をどこかで耳にしたことがあると思います。長い距離を走るトレーニングを続けているとき、あるポイントを超えるとそれまでのつらさが消え、高揚感に変わる現象をいいます。そのときに脳内では、エンドルフィンやカンナビノイドといった物質が分泌されます。これらの物質は、疲労感や痛みを消すために防御的に分泌され、その結果、多幸感や快感に似た感覚が引き起こされるのです。これが疲労感のマスキング作用です。
 疲労感がマスキングされたまま激しい運動を続けていると、脳にも、心臓などの体の部位にも、疲労が蓄積します。エンドルフィンやカンナビノイドは、脳内麻薬と言われるように、疲労感をマスキングしますが、決して疲労を軽減するものではありません。その点でも、「ランナーズ・ハイ」の状態はたいへん危険と言えます。